2013年11月22日金曜日

一週間はあっという間。



会えば誰もが一週間が早いと言っていた。
一人くらい「長い」という人がいてもいいものだが、誰もが「早い」と言っていた。
もしもそれが気のせいではなく、事実として一週間が本当に早かったとしたら、それはどうやってわかるのだろうか。
もしかしたら「1分」が早くなっていたりしないだろうかと考えた。
そして、それを確認するためにはすべての時計を信用することはできない。
これは何かしらの陰謀なのだ。
そこで私は学生時代の同級生「刻谷時文」のことを思い出した。
時文はかつてストップウォッチを10秒で止めるゲームで確実に10秒をたたき出していた。

「もしもし、おれやけど」

時文と話すときは関西弁だった。

「おお、久しぶり、久しぶりちゃうわこないだ会うたな」

時文とはつい先週偶然にもお茶の水のCD屋で遭遇していた。

「そうやで、あれ一週間前やで」

「一週間前やな」

「どう思う?」

「何がや?」

「一週間前という事について」

「何を言うとんのや」

「あれは一週間前だったという感覚は確かなものか、という事や」

「わけわからんわ、どないしてん?」

「最近、一週間が早いと思うねん」

「そらそういうときもあるがな」

「いやいや、そういう事じゃなくて、マジで」

「マジでってどういうことやねん、そら普通に24時間が回っとるやろ」

「そこが怪しいと思うねん」

「怪しいもくそもあるかいな」

「そいでな、おまえに一分を計ってほしいねん」

「何の意味があるんや、時計みたらしまいの話しや」

「あかんねん、陰謀で全部信用ならねんて」

「なんでやねん、もう切るで、あほらしい」

「たのむわ」

「めんどうやわー、一分て、60秒やろ?絶対ズレるわ!」

「じゃあ、いまからな」

「ちょっとまてや、ほな、そのわしの計った1 分が正しいかどうかはどうやって判断するんや」

「それは、もうそれがそれなんやわ、それが正しいんやわ」

「ほんまかいな、知らんで」

「はい、よーいスタート」

私は壁に掛かった時計の秒針が12を指したところから合図をした。

「ストップ」

時文が言った。

「もう?」

私は驚いた。
時計の針はまだ30秒を示していたからだ。

「あかんか?」

「いや、ええ、ありがとな、またな!」

私は時文に時計が示した時間を言わなかった。
きっと30秒早い事を言えば時文は自分が間違ってると思うだろう。
時文にはその能力に自信を持っていてほしかった。
私が信頼できる時計の結果は一分が30秒だった。
つまり、実際は倍の時間が経っていたというのに、時計の上では半分しかたっていないようにすりこまれていたのだ。これでは体感速度だけが早く感じるわけだ。

私が一週間だっと思っていた日々は実は「二週間」だったのだ。

「二週間は長い」

これが私の近頃の時間経過の感想だ。
「一週間」については何も思わない。



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